こんにちは、よこやまです。
「今日の本気の脱線授業から」をお送りします。

南北朝時代=天皇が同時に2人存在した!?

歴史の授業では室町幕府の成り立ちについて学びます。
ちょっと簡単におさらいしましょう。
①元寇以降、鎌倉幕府が弱体化する
②後醍醐天皇が足利尊氏ら武士の力を借りて鎌倉幕府を滅ぼす
③足利尊氏はめちゃめちゃ御恩(ごほうび)、またはすげーイイ役職がほしい
④後醍醐天皇は武士ではなく公家(貴族)中心の政治に戻したい
 (これを「建武の新政」という)
⑤足利尊氏はスネるを通り越して暴挙に出る
⑥それは、「じゃあ後醍醐天皇は認めないから」って言って別の天皇家の人間を天皇にする
⑦つまり、日本に天皇が2人いることになり、2つの朝廷(天皇を中心とした政治体制)ができてしまった!!
 これを南北朝という!!
⑧北朝=足利尊氏派閥、南朝=後醍醐天皇派閥で争うが足利尊氏の方が勢いに勝る
⑨足利尊氏は自分が押し上げた天皇によって「征夷大将軍」に任じてもらい幕府(武士を中心とした政治体制)を開く
 これが室町幕府のはじまり。

※ これってすごくないですか?
  たとえるならば、生徒会長に立候補したら生徒会選挙に落ちてしまったので
  強引に別の生徒会を作って生徒会長になった
  みたいな感じです。

⑩はじめは張り合ってた後醍醐天皇も次第に弱っていき、最後は病に倒れ崩御した
 ※崩御=天皇が亡くなられる際に使われる最上位の敬語のこと

⑪この歴史上で唯一、日本で天皇が同時に2人も存在した異常事態である南北朝時代は約60年間も続いた

ということなんだよ。
どちらの言い分が正しいかまではわからないけれど、すっごくおかしな状態だったことはわかるよね。

さて、次はタイトルでもある「江南市民にはぜひ南北朝時代の南朝を味方してほしいと思うのはナゼ?」
について迫っていってみよう!

後醍醐天皇は江南市と関係がある!?

さて、次第に足利尊氏や北朝に追いやられて行ってしまった後醍醐天皇ですが、
皆んながすむこの江南市に関りがあったんだ。
正確にはこの地に来たわけではないけどね!

江南市のシンボルの1つは何だろう?
4月末から5月初旬にかけてたくさんの人が集まる人気スポット、
きっとみんなも一度は行ったことがあるお祭りは?


そう、曼陀羅寺の藤まつりだよね?

写真は江南市公式ホームページより

この曼陀羅寺なんだけど、
実は「建てなさい!」と命じたのが、南朝として追いやられていった後醍醐天皇なんだ!!
(曼陀羅寺についてウィキペディアを参照
ちなみにウィキペディアによると曼陀羅寺は1324年から建てられたということなので、
今からだと698年前ということだね。
すごいな、あと2年経った2024年には建立から700周年ということになるんだね。
藤まつりって江南市の一大イベントの1つじゃないかな。
僕も毎年、行っているし、たこ焼きやら何やらを買って楽しむんだけど、
大人になった今では藤の花のキレイさにしんみりとしたりしているよ。

こちらの写真も江南市公式ホームページより

そんな藤まつり、いや曼陀羅寺のきっかけとなっていた後醍醐天皇、、、
だから南北朝時代で北朝が優勢になっていってしまったことが、少しだけ残念と思ってしまうんだよね。。。笑

まとめ

①南北朝時代とは日本に同時に2人の天皇(朝廷)が存在した室町時代初期の頃のこと
②北朝=足利尊氏グループが南朝=後醍醐天皇グループを追いやってしまった
③足利尊氏はちょっと強引なやり方で征夷大将軍になって室町幕府を開いた
④追いやられてしまった後醍醐天皇は実は江南市のシンボルでもある曼陀羅寺の建立を命じていた
★せめて江南市民には南朝の味方でいてほしいような気がするなww

ということです。
さて、このように約60年も続いた南北朝を統一させたのは、3代将軍「足利義満」です。
このお話も中々におもしろいんだけどね。
それはまた、別のお話。

この「それはまた、別のお話」というドラマ:王様のレストランで出ていたフレーズと
3代将軍「足利義満」は一休さんに出てきていた「将軍さま」なんだぞ!
と言って反応してしまうのは僕と同年代に近いお父さん、お母さんじゃないかな。

以上、「今日の本気の脱線授業」をお送りしました。

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